研究費とか学生数とか

久々に真面目に。ちょっと盛り込みすぎた。

経済、株価、ビジネス、政治のニュース:日経電子版

国立に、特に東大京大に研究費が傾倒している、と言う現状は古くから問題視されていますが、学生数で云々、と言うのは逆方向にナンセンス。
人数に応じた配分と言っても、例えば業績が出なくて学位が取れないD4、D5、研究生が多い為に人数が膨れ上がっている可能性だってある訳で、更に言えば就職先が無い為に膨れ上がっている可能性だって否めない。大体、実際大学来て研究してる人間と、お休みを頂いている人間と、来ているけどお休みを頂いているような人間(嘗て自分は此処にいました)と。何を物差しにするんだろう。まだインパクトファクターを材料にする方が余程具体的で直接的じゃないか。
専門外の方には難しいのだろうが、やはり研究の内容をなるべく理解し、内容に対してなるべく適切に配分するしかないんだよな。理想論だけど。

大学院生支援のあり方について : 大隅典子の仙台通信

新しい研究科をつくり学生を増やす近年の動きに合わせ、教員もある程度増加した。その分教員の質は低下した感が否めない。
はてなダイアリやTダイアリの存在も知らずにアメリカのweb logツールを導入し、「このサイトは日本初のブログだ」厚顔無恥にも仰ってしまった東大の先生と学生が軽く祭りになった逸話が今でも忘れられない。こうは言いたくないが、どこぞの芸術系大学上がりの御大で、天下の東大の理系っぽい専攻にこんな分野の人間が来てるんかい、と驚いたものだ。
学生もまた、ずるずると進学する人が増えているんじゃないか。自分も、社会に出る、何かを売って対価を稼ぐ、と言うのがしっくり来ずに大学院へ上がった人生舐めた口だからこう思うのかもしれないが、やはり修士、博士の定員が増え最近ラボを覗きに行くとバランスが悪いと感じる。就職口は無いのにこんなに居てどうするんだろう。

経済援助を篤くしないと研究が金持ちの娯楽になってしまう。それはやはり勿体無い事ではある。しかし、大勢をそれなりに支援しているとモラトリアム色がどんどん濃くなる。大学ですらモラトリアムなのに。
ところが働く段になると、高学歴になればいい、と言う社会構造ではない(そんな社会はありえない)。世の中的には修士ですら持て余す企業が多く、増して博士など「プライドが高くて物覚えは悪いし知識は今一つ役に立たない」と見られるのが現実。最近は大学の名を上げたくて博士号の安売りをしている大学も増えてきているようだし。となると元々低い博士の価値は今後当分下がる一方だとも言える。
実際、応用系分野なら兎も角、基礎系なら企業で即戦力になるような事はやっていないのが普通だし、博士取って有難がられて専門を生かせる企業へ就職、なんて。考えればすぐ分かる。ナンセンスだ。基礎研究は金も儲けも関係なく行われている世界で、一方社会は金銭と価値のやり取りで動いているのだから。
学生の内からそういったことに高い関心を払って将来設計が出来ればいいけど、学生も教員も夢見がちな言葉を語らずに居られない生き物だし。今からでも遅くないから、早く定員数を押さえる方向に向かって欲しいものだ。
一般に直接的な価値を生み出さないと社会の歯車としては役に立たない、つまり対価を得られない。日本は特に近視眼的だし小さくて平等な国だから、パトロンとして基礎研究や知識の集積にぽんと投資できる大金持ち、しかも意識の高い大金持ちなんてもんはそうは居ない。
ベンチャーキャピタルとか言った所で、彼らはどんなに気が長くても10年待ってくれりゃ上等。バイオベンチャーなんかは上場した企業が伸び悩んでるから上場基準は厳しくなるばかり。ベンチャーを上場させる市場なのに、大企業のマネーゲームと同様の伸びを期待されても困る訳だが、やっぱりマネーゲームを楽しむ連中はそうは気が長くない。
結局、基礎的な研究で企業として生きていく手段はベンチャーのようなハイリスクハイリターンの余裕の無い業態ではなく、大企業が出資する研究所等にしか可能性が無いんじゃないだろうか。となると夢見がちに研究で起業とか思っても、そうは生き残れない。10年後、ベンチャーの夢の跡に残された大量の博士達はどんな暮らしをし、どんな仕事に就き、何を思っているだろうか。